完堕ち女子大生 ~愛と哀しみのナポリタン~(4)

    「お父さん、バイト行ってくるね」
     日曜の朝からパソコンに向かっていた文彦は、玄関からの声に書斎を出てきた。
    「帰りは何時になるんだ?」
    「きょうは遅くなる。バイトの後、サークルの準備あるから」
    「遅くなるのか」
     スニーカーの紐を結ぶと、すみれが振り向いた。「出前でもなんでも晩ご飯、一人で適当にね。私は食べてくるから」
     ピタリとしたスキニーデニムに、シンプルな黒の長袖Tシャツがきょうのコーデだ。首元が広めに開いたラウンドネックで、ゆったりした裾にある2つの破れ穴がアクセントになっている。白いカーディガンを羽織っているから目立たないが、Dカップのバストが胸の部分を押し上げ、身体のラインが綺麗に浮き出ていた。
    「またぼっち飯か」と苦笑いした文彦が声をかける。
    「あんまり遅くなるなよ」
    「はーい」
     黒のキャップをかぶり直すと、嘘ついてごめんなさい、と歩きながら文彦に詫びた。
    (純平と付き合うきっかけを作ってくれたのはお父さんなのに、本当にごめん)
     しかし、自然に出る鼻歌は抑えきれない。バイトの後は、3週間ぶりのデートなのだ。

     あれは運命だった。すみれは今でも、そう思っている。
     水嶋純平と出会ったのは、入学直後のゴールデンウィークに行われた合同合宿だ。純平は文嘉大手話研究会の新入生だった。親戚に聴覚障害の同い年の女の子がいて、何とかコミュニケーションを取りたい、だから小学校のころから手話を始めた、初めて会話が通じた時の相手の笑顔が忘れられません――。初日の自己紹介が心に響いた。
     翌日はすみれの誕生日だった。1年生同士で組まされた会話練習で、その純平とたまたまペアになったのだ。相手の目を見て手を動かす純平に見つめられ、自分でもはっきりと分かるくらい鼓動の高まりを感じた。
     女子校育ちだが、さばさばした性格からか、昔から男子ともフランクに接してきた。なのに、純平には素直に話しかけられない。
    (何なの、この気持ち)
     合宿が終わってから、思い切って美咲に相談すると、「水嶋くんのこと好きになっちゃったんでしょ」とあっさり言われ、自分でも驚いたものだ。
    (これが人を好きになるってことなんだ)

     私学の雄と言われる文嘉大は、OBの結束が固く、金融機関や商社への就職に強いことでも知られる名門だ。最近は司法試験合格者や中央官庁への採用も急増。中でも通称「文政」と呼ばれる純平が進んだ政治学部は、私大文系で最難関の偏差値を誇り、文嘉大の中でも特別な存在だった。

     二人の距離が縮まったのは、夏休みに訪れた千葉県の施設での絵本読み聞かせ会だった。帰りの電車で純平の方から声をかけてきたのだ。そのころのすみれは、意識するあまり、目も合わせられなくなっていた。
    「西巻さんのお父さんって、西巻メソッドの西巻文彦先生なの?」
    「え? あ、うん」
     胸がドキドキしてきた。
    「やっぱりそうなんだ。俺、西巻先生の参考書のお陰で英語が苦手じゃなくなったんだ。文政に受かったのも、英語でつまずかなかったからだと思う。すっごい感謝してる」
     いきなり頭を下げる純平に、慌てて手を振った。
    「私じゃなくてお父さんだから」
     その瞬間、目の前に純平の顔が現れた。
    (近い!)
     でも目が離せなかった。それから何を喋ったのか、よく覚えていない。
     後になって、降りるまでの30分、ずっと二人で話していたと美咲から聞かされた。
     駅からの帰り道、すみれを見た人は不審に思っただろう。ニヤニヤしながら、お父さん、ありがとう! とガッツポーズを繰り返していたのだから。

     告白されたのは10月の半ば、やはり読み聞かせの会に行った帰りだった。美咲に「仲良いね」と冷やかされながら、いつものように他愛もない話をしていた。
     すみれは大抵、聞き役だった。大学受験まで東京に来たことがなかったこと、高校時代は吹奏楽部で指揮をしていたこと、好きだったアイドルが17歳年上のお笑い芸人と電撃婚した時は高校を2日休んだこと、すみれより背が2センチ低いと知ってショックだったこと。と、純平が急に真面目な顔になった。

     すみれを指さすと、右手の親指と人さし指を開いてのどに当てる。その手をスーッと降ろして指を閉じた。
    「え?」
     一瞬何のことか分からなかった。純平はもう一度同じ動作を繰り返す。
    (ああ、手話か)
     手の動きを思い出してみる。
    (指をさしたのは、あなた、だっけ。指を降ろして閉じるのは……え?)
     すみれはようやく理解した。
    (あなたが、好きです)
     手話で応えようと思ったが、頭が働かない。頬が熱い。顔が真っ赤になっているのが分かる。
    (早く、返事しなきゃ)
     気ばかり焦り、なんて言えばいいのか思いつかない。
     咄嗟に口をついて出たのは「いただきます」だった。
    「西巻さん、それって……OKってことでいいの?」
     不安そうに見つめる純平に、すみれは無言で何度も頷いた。

     西巻さんがすみれになり、水嶋くんから純平と呼び捨てになるまで、そう時間はかからなかった。去年のクリスマスイヴ、文彦が英語学習の講演で家を空けたその夜に、二人は初めて結ばれた。痛みはあったが、それより好きな人と一つになれた幸せの方が大きかった。

     今でも、告白された時のことを純平にからかわれる。
    「俺、断られたらどうしようって、すっごい不安だったんだから」
    「私だって初めてだったんだよ、コクられるのなんて」
     すみれはむくれたように言い返す。
     こののろけ話を何度も聞かされ、そのたびに「ごちそうさま」と爆笑する美咲だけが、二人の交際を知っていた。
     
    「美咲、お願い。お父さんには絶対内緒だからね」
    「分かってるって。奥手なすみれに初めて来た春だもんね」
     中等部で同じクラスになってから、付き合いはもう7年を超えたが、美咲はいまだに掴みどころがない存在だ。相談には乗ってくれるが、こと自分の恋愛話は一切話さない。特に大学に進んでからは、はぐらかされることが多くなった気がする。一度それとなく聞いてみたが、「全然、何にもないよ」と一笑に付された。
     ま、いっか。ちょうどホームに入ってきた快速列車に乗り込むと、すみれはスマートフォンをチェックし始めた。

     次回は2/18 19:00更新 


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